なぜ日本の賃金は上がりにくかったのか
Why Wages Stagnated企業の利益や生産性、最低賃金といった切り口から、日本の賃金がどう決まってきたかを見てきました。ここで、多くの人が一度は感じたことのある疑問に、正面から向き合っておきます。日本の賃金は、なぜこれほど長く上がりにくかったのでしょうか。
結論を先に言うと、これという単一の犯人がいるわけではありません。専門家の間でもいくつかの説が語られており、このページでは代表的な4つを並べて整理します。どれか1つが正解というより、複数の要因が重なり合った結果として、この四半世紀の賃金の伸び悩みがあった、という見方でここまでの話を締めくくります。「◯◯のせいで賃金が上がらない」という一言で片づけず、複数の説を並べて眺めることが、このページのゴールです。
賃金が上がりにくかった、4つの説
1つ目は、デフレの時代に染みついた「上げない・上がらない」慣行です。賃金と物価の関係で見たとおり、物価が上がらない時代が長く続くと、企業は値上げにも賃上げにも慎重になり、働く側も「上がらないもの」として受け止める空気が社会に定着してしまいます。値札を据え置くことが正しい経営判断だった時代が長く続けば、人件費という最大級の費用にも、同じ「据え置き」の発想が及んでいきます。
2つ目は、生産性の伸び悩みです。生産性とは何かで見た、企業が同じ時間でどれだけの価値を生み出せるか、という生産性の伸びが小さければ、賃金として配れる原資そのものが増えにくくなります。売上を伸ばす方法が値上げではなく、コストを切り詰めることに偏ってしまうと、人件費もまた抑える対象になりやすくなります。
3つ目は、転職が少なく、賃金の競争が働きにくかった労働市場です。1つの会社に長く勤め上げる働き方が主流だった日本では、賃金を上げなければ人が辞めてしまう、という圧力が他国ほど強くは働いてきませんでした。同じ会社に勤め続けることが前提になっていれば、外の会社と賃金を比べて交渉する、という動きも起きにくくなります。
4つ目は、非正規雇用(パート・アルバイト・契約社員など、正社員以外の雇用形態)の広がりです。相対的に賃金水準が低くなりやすい働き方をする人が増えたことも、社会全体でならした賃金の伸びを抑える要因になってきました。個々の職場で時給が上がっていても、非正規雇用で働く人の割合そのものが増えれば、平均としての賃金の伸びは鈍く見えることがあります。
| 説 | 内容 |
|---|---|
| デフレ期の慣行 | 物価も賃金も上がらない状態が「普通」になった |
| 生産性の伸び悩み | 生み出す価値が伸びず、賃金の原資が増えにくい |
| 労働市場の構造 | 転職が少なく、賃金を上げる競争圧力が働きにくい |
| 非正規雇用の広がり | 相対的に賃金水準が低い働き方をする人が増えた |
4つとも、経営者や個人の「悪意」から生まれた話ではない、という点も押さえておきたいところです。値上げを避けたのも、賃上げを見送ったのも、当時の状況の中では合理的な判断だったという側面があります。物価が上がらない社会で先に値上げに踏み切れば、他社に客を奪われかねません。1つひとつの判断は理にかなっていても、社会全体で積み重なると、賃金が上がりにくい構造として固定されてしまう。これが、この4つの説に共通する構図です。
どの説も一部を説明する
4つの説は、互いに矛盾するものではありません。デフレの慣行が企業の値上げ・賃上げへの慎重姿勢を生み、その慎重姿勢が生産性を高める投資を先送りさせ、転職の少なさが賃金交渉の圧力を弱め、非正規雇用の広がりが社会全体の平均賃金を押し下げる、というように、いくつもの要因が絡み合いながら、この四半世紀の結果を作ってきたと考えるほうが実情に近いといえます。
単一の犯人を探すよりも、複数の要因が重なり合っていた、と捉えるほうが誠実な見方です。どれか1つを取り除けばすぐに賃金が上がる、という単純な話ではありません。だからこそ、後で見るような複数の変化が同時に重なったとき、初めて賃金が動き出す、という順番になりやすいのです。
ニュースや本の中で「日本の賃金が安いのは○○のせいだ」という言い切りを見かけることがあります。そうした言い切りは分かりやすい反面、話を単純化しすぎているおそれがあります。この講座で確かめたいのは、正解をひとつ丸暗記することではなく、複数の説を並べて、自分の目で重み付けできるようになることです。同じ4つの説でも、業種や職場によって効き方の強さは変わってきます。
いま、変わりつつあるのか
一方で、変わりつつある兆しもあります。2026年の春闘では賃上げ率が5.26%となり、5%を超える水準が3年連続で続いています。最低賃金も2025年度に全国加重平均1,121円となり、前年から66円という過去最大の引き上げ幅を記録しました。加えて、働き手そのものが減っていく人手不足という構造的な圧力も、賃金を押し上げる方向に働いています。
| 変化の芽 | 数値 |
|---|---|
| 春闘賃上げ率 | 5.26%(連合、2026年) |
| 最低賃金(全国加重平均) | 1,121円・前年比+66円(厚生労働省、2025年度) |
4つの説に照らして見ると、この変化の芽は特に3つ目と4つ目の説に効いているとみられます。人手不足で人材の奪い合いが起きれば、転職市場を通じた賃金競争が働きやすくなり、最低賃金の引き上げは非正規雇用で働く人の賃金を直接押し上げるからです。
ただし、これらの動きが、賃金の上がりやすい構造そのものを変えたのかどうかは、まだ言い切れません。2025年の実質賃金は前年比マイナス1.3%と、名目の賃上げに物価上昇が追いついてしまっていました。実質賃金がプラスの状態で続くかどうかが、この変化が本物かどうかを見分ける監視ポイントになります。
春闘の交渉結果や最低賃金の改定額は、毎年ニュースで大きく報じられます。ただし、それは名目の数字の話です。その数字だけを見て「賃金は上がった」と判断するのではなく、同じ時期の物価の伸びとあわせて確かめることが、この章でくり返し見てきた読み方です。名目の賃上げ率と物価上昇率、この2つを並べて初めて、暮らしが実際に楽になっているかどうかが見えてきます。
ここからは、基礎の一歩先の話です。読み飛ばしても本筋は追えます。
物価も賃金も上がらなかった四半世紀を表す言葉
「安いニッポン」という言葉を、ニュースや書籍のタイトルで見かけたことがあるかもしれません。海外の物価や賃金と比べて、日本のホテル代や食事代、そして賃金水準そのものが割安に見える、という現象を指す言葉です。インフレとデフレで見た、物価が上がりにくかった長い時代と、このページで見てきた賃金が上がりにくかった構造は、実は同じコインの裏表にあたります。
物価が上がらないから賃金も上げにくく、賃金が上がらないから消費も強くならず、企業も値上げに踏み切りにくい。このように物価と賃金がお互いに足を引っ張り合う状態が長く続いたことが、「安いニッポン」という言葉が広く使われるようになった背景にあります。海外から訪れる旅行者にとって割安に映る値札の裏には、この講座で見てきた4つの説が積み重なった、長い時間の結果が隠れているのです。
言葉が広まること自体が、変化のきっかけにもなる
「安いニッポン」という言葉が広く語られるようになったこと自体、状況を変える力になり得ます。安さが問題として意識されるようになれば、値上げや賃上げへの心理的なハードルが下がり、企業も消費者も「上げてもいい」という空気を受け入れやすくなるからです。言葉が現実を映すだけでなく、現実を動かす側に回ることもある、という点は、経済の数字を読むうえで覚えておいて損はありません。
4つの説のうち、自分の実感に最も近いのはどれでしょうか?
ヒント: 自分や身近な人の勤め先で、賃金がどう決まってきたかを思い出してみましょう。
日本が「賃金が上がる国」に変わったかどうかを、どの数字で見張ればよいでしょうか?
ヒント: 名目の賃上げ率だけでなく、物価上昇分を差し引いた後の数字にも注目してみましょう。